3-1  奥之院

奥之院と石絵馬(左)
奥之院と石絵馬(左)

 奥之院は長沼・本村の西端に位置し、長沼新田が開発される以前から、ここにあった。付近は駒形千軒と呼ばれ、何軒かの農家が点在していたと推測される。元和6年(1620)秋、徳川家光が大納言の時、元服して間もなく、東金へ鷹狩りに行き、その途中、この辺りで愛馬が傷つき死んでしまった。地元の農民らがこの馬を供養したのが奥之院の始まりといわれる。
 本尊は馬頭観音で、御成街道沿いの駒形観音堂も、この馬頭観音を分霊、勧請して創建された。ここが「元観音」と呼ばれる由縁である。お堂は、元禄6年(1693)の観音堂建立当初の面影を残しており、長沼の寺社の中でもっとも古い。
 いつの日からか、愛馬が家光の身代わりとなったと言い伝えられ、境内の小石を持ち帰り、痛むところに当て、よくなれば石を倍返しするという習わしが定着した。「身代わり観音」として、いまなおお年寄りの篤い信仰を集めている。
 境内の一角に、石絵馬が百数十枚奉納されている。元気よく後ろ足を跳ね上げた、陽刻、陰刻の石絵馬には、近隣農家の人たちの農耕馬への感謝と無病息災の願いが込められている。以前は、境内に無造作に置かれていたが、平成7年(1995)に紛失を防ぐため、土塀に埋め込まれた。江戸期の絵馬もあるが、
多くが明治、大正期に奉納されたものだ。板でなく石の絵馬が1カ所にこれだけ奉納されている例は全国でも珍しい。

 昭和30年(1955)代まで、村ハズレの奥之院は杉の木立が鬱蒼とし、夜になると、丑の刻参りの釘を打つ音が聞こえる寂しい場所だった。

石絵馬 陽刻
石絵馬 陽刻
石絵馬 陰刻
石絵馬 陰刻


3-2  三社大神

 三社大神は、長沼新田の「守り神」。記録がなく、いつ頃、誰によってつくられたか、定かではないが、新田開発後、村びとによって、創建されたのは間違いない。長沼・本村の東端にあり、旧住民が親しみを込めて「うぶすなさま(産土神)」と呼ぶ社(やしろ)は、平成10年(1998)に南向きに改築されるまで、西を向いており、本村を挟んで奥之院のお堂と向かい合っていた。2つ聖地は本村を観音堂と囲んで「聖地のトライアングル」を形づくり、いまも本村の人たちの心のよりどころとなっている。

 三社大神は伊勢神宮の大日孁命(おおひるめのみこと)、鶴岡八幡宮の誉田別命(ほんだわけのみこと)、春日神社の天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀っている。

  しかし、三神とも、当番宿(トウヤ)が一年間お守りをし、時計回りで次のトウヤへ渡されて行くため、社そのものは「空宮」である。毎年221日に行われる御奉射祭(オビシャ)での三神の引き渡し式が「オトウ渡し」で、本村の人たちにとって、最も重要な祭りと位置づけられている。「神を大切に守る」ことが義務となるトウヤが毎年交代することで、カミに近づき、また「カミが留守」ながら、いつでも手を合わせる場があることで、三社大神はムラの求心力を維持してきた。近隣との争いや、宗門が違う村びとをまとめるうえで、村に欠かせない「カミ」であったといえる。

 秋の例祭は毎年1016日に行われる。いまは、祭礼だけが細々残っているだけだが、昭和40年代までは、収穫を祝う祭りとして村びと総出で楽しんだ。観音堂の境内を会場に、余興や、屋台が出て、村びとの娯楽として大いに盛り上がった。また、当時は御成街道沿いに三社大神の入り口となる石の鳥居が立っていて、存在を示していた。だが、その鳥居も交通事情などにより平成10年に境内に移され、周辺の都市化と相まって、住宅の中に埋もれつつある。

平成10年(1998)年に建て替えられる前の三社大神。(1998年3月2日撮影)

南向きに建て替えられる前は、西を向いており、奥之院と向い合って、「聖地のトライアングル」の底辺を形づくってきた。平成10年改築の新しい社は産土神様として、いまでも観音堂と奥之院とともに長沼集落を「聖地のトライアングル」で囲み、守り続けている。


3-3   駒形観音堂と大仏

 駒形観音堂は、御成街道沿いの長沼交番の隣り、長沼・本村のちょうど真ん中に位置する。長沼の象徴である長沼・駒形大仏はここに鎮座し、江戸時代からずっと長沼の人たちや街道を行き交う旅人を見守ってきた。

 本尊は奥之院の馬頭観音を勧請した美形の観音様で、普段は厨子に納められているが、毎年218日の例祭にだけその姿を見ることができる。また、本堂には江戸中期の作といわれる如意輪観音像も祀られている。

 境内には、千葉寺十善講の18番目の札所である大師様や、天神様が祀られ、さらに寺子屋の師匠を偲んで建てた筆子塚、約20の子安塔、墓参の場となる「詣り墓」が配置され、本村の人たちが集まる村の広場でもあった。祭りの際に村の男衆が力を競ったであろう「力石」も置かれている。昭和59年(1984)には、ここに長沼町内会館が建てられた。

 観音堂は元禄6年頃に、御成街道を通る旅人の安全と村人の安寧を願って、近在の村びとの協力を得て、心愚(鈍誉心愚大徳)が建立したと伝えられる。開闢導師は兄弟子の検見川村善勝寺の八世廓譽閑隆。この時、江戸の薬種商人・野田源内も長沼新田一帯の整備に当たり、観音堂創建の先頭に立っていた。一方、心愚らは駒形大仏建立のため、浄財集めに奔走し、野田源内もこれに力を注いだという。

 元禄16年(1703)には、大巌寺(現・千葉市中央区)の十六代然譽上人によって、大仏への開眼の儀式が行われ、奥之院近くに大仏が安置された。元文4年(1739)には、源内の主導で、街道沿いの観音堂へ移座された。大仏は、膝上から背面にかけて、浄財を寄進した念仏講中名が刻まれており、それは近隣をはじめ船橋、佐倉、遠くは松戸の約60カ村に及んでいる。中には「東照権現」と刻字された徳川家康の名も確認できる。

 観音堂は、大仏の開眼式を機に、浄土宗・大巌寺の支配に入り、心愚が管理した。心愚と活動が重なるのが、長沼の整備を先導した野田源内。観音堂や大仏の建立の推進役として力を発揮したが、建立記録には心愚の名が目立つだけ。このため、野田源内は心愚と同一人物ではなかったかとの見方もある。源内の人生は、謎に包まれているが、いまに残る長沼の形を作り上げた一人として見落とすことはできない。

 

 

観音堂は、西洋の教会前広場と同様、集落のコミュニティー広場だった。
観音堂は、西洋の教会前広場と同様、集落のコミュニティー広場だった。
   4月1日、ご詠歌とともに、観音堂の大師様に   千葉寺  十善講中が訪れる
   4月1日、ご詠歌とともに、観音堂の大師様に   千葉寺 十善講中が訪れる