1-1東金御成街道概略

 江戸幕府の初代将軍 徳川家康は、東金方面へ鷹狩りのため佐倉藩主 土井利勝に街道の普請を命じた。慶長18年(1613)師走から19年正月にかけて着工し、昼は白旗を掲げ、夜は提灯を灯して、船橋から東金までの約37キロ㍍を三日三晩で普請したと伝えられている。このため、別名「提灯街道」「一夜街道」「権現道」とも呼ばれたが、実際には、完成までに1ヶ月から数ヶ月かかったといわれている。

 近隣の村が地域ごとに普請を請け負う形で行われ、多くの農民が駆り出された。犢橋村には、東西からの普請で街道にズレが生じ、これを強引につなげて、街道が極端に曲がってしまった場所がいまでも残っている。御成街道ができるまでは、船橋宿-検見川村-稲毛村- 登戸村- 寒川村と海岸沿いの街道が主要道路だった。

 御成街道の起点は宿場町として栄えた船橋、終点は東金にある八鶴湖の東金御殿。この間をほぼ一直線で結び、幅が3間(5.5㍍)あった当時の一級国道で、鷹狩り役人らの往来があり、賑わった。

 また、街道には、一里ごとに塚が置かれ、一里塚のそばには松などを植えて、目印とした。長沼周辺には、向山と呼ばれる場所に塚があったが、いまでは東関東自動車道の建設でなくなり、街道沿いに面影が残るのは、千葉市若葉区千城台の提灯塚と八街市上砂のクヌギ山だけとなった。

 現在、街道は長沼から鎌池(自衛隊下志津駐屯地前)の間が、明治期にできた陸軍の演習場で寸断されている。さらに八街市の一部でも消えている。長沼を通る御成街道は、いまも 県道66号と69号の一部として使われ、交通量の多さから、渋滞の名所になっている。

 


1-2 家康、秀忠、家光と鷹狩り

東京江戸博物館 徳川家康像 
東京江戸博物館 徳川家康像 

 鷹狩りは、洋の東西を問わず、古くから権力者の象徴として行われた。日本でも、鷹狩りを好んだ武将は多く、織田信長に諸国の武将がこぞって鷹を献上したことが知られている。

なかでも、徳川家康は、鷹狩りについて「好き」の領域を超えて、身体を鍛える養生法の一つとして捉えていたという。側近には、鷹匠組がついていた。

 二代将軍・秀忠も、毎年武蔵国や、上総国に出かけて鷹狩りをした。とりわけ、東金周辺での鷹狩りが気に入り、何度も足を運んでいる。

 また、三代将軍・家光は、無類の鷹狩り好き。江戸城内に鷹を飼う「鷹坊」を設け、数百回も鷹狩りを行ったという。

 3将軍とも、鷹狩りで御成街道を利用し、長沼を通っていた。家康由縁の御瀧神社、家光の愛馬が葬られている奥之院など、将軍にまつわる史跡が長沼周辺に残っている。

 家康は御成街道の普請とともに、将軍の宿泊処 東金御殿、休憩所 御茶屋御殿(千葉市若葉区御殿町)をつくらせた。現在、御茶屋御殿の跡地が千葉市指定史跡として保存されている。その表門は千葉市若葉区上泉町の寶泉寺、裏門は同金親町の金光院に残されている。

 三代将軍・家光は、将軍になる前、元和6年(1620)大納言の時に、一回だけ御成街道を利用した。将軍になって、寛永13年(1636)に東金御殿を修復させたものの、自身は一度も東金に来ることはなかった。これは、家光が寛永5年(1628)に江戸から5里(20㌔㍍)以内の54ヵ村を将軍家の鷹場としたことによる。代わりに、東金方面へは寛永19年(1642)、初めて名代を立てて、形だけの鷹狩りを行った。その後毎年、天和元年(1681)まで名代だけの鷹狩りが続いた。しかし、寛文11年(1671)には、東金御殿も取り払われた。これには、五代将軍 綱吉の「生類憐みの令」(貞享4年=1687)の影響があったといわれる。鷹狩りは享保2年(1717)に復活し、翌3年以降再び名代による鷹狩りが行われるようになった。

 東金御殿は、撤去された際、その建物の一部が寛文11年(1671)に小西村(現・大網白里市)の正法寺に移築され、現存している。

 

三代将軍 東金鷹狩り年表    徳川実紀より作成

  1614年 1615年 1617年 1618年 1619年 1620年 1621年
家康 ○ 

*○

          2回
秀忠      
  1623年 1625年 1627年 1630年        
        9回
家光             1回

*金親町 金光院に逗留したと言われる


1-3御瀧神社と周辺

  徳川家康が東金へ向かう鷹狩りの際、現・御瀧神社周辺にあった小さな滝で喉を潤したと伝承されている。家康は慶長19年(1614)と元和元年(1615)の2回鷹狩で東金に来ているが、いつここに立ち寄ったのかは定かでない。

 御瀧神社は家康を因んで創建され、別名 御瀧権現と呼ばれている。「水神さま」の名も持っている。小さい社で、数回移転しているという。場所は、奥の院近く、長沼新田と隣接する犢橋にあり、いまも犢橋の人たちが守り続けている。

 この滝は、「長沼」の地名の由来となった長沼の水源で、小さな川となって、長沼に流れ込んでいた。しかし、現在は、滝の跡形もなく、いまとなっては遊歩道となった小川の跡を歩きながら、当時を想像するしかない。

 古老によると、明治期、神社の背面近くに、赤い太鼓橋のほか、雨が降ると深い水たまりができる窪地があったとか。そこは、両側が急崖となっていて、遊びに来た子どもが滑り落ち、上がれなく、溺れたとの話が伝わっている。加えて、周辺は鬱蒼とし怖い雰囲気が漂っていたことから、「あそこで遊んではダメ」とよく親からいわれたという。

 また、神社近くの丘に城址あったことが明治期の地図に記されている。中世の館とみられる。ここは「押越姫宮」と呼ばれ、想像力を刺激してくれるのに十分な地名だ。古老たちが小さかった頃、ここも格好の遊び場だった。

御瀧神社から長沼池への小川は遊歩道となっている。
御瀧神社から長沼池への小川は遊歩道となっている。

1-4 御鹿狩と勢子

 下総台地の小金原(松戸市)は、将軍徳川吉宗が享保10年(1725)に初めて御鹿狩(おししがり)を実施して以来、嘉永2年(1849)まで4回にわたって、鹿狩りが行われた。御鹿狩は、将軍視察のもと、数千から数万人に及ぶ騎馬兵、歩兵、百姓勢子が竹棒などで数日かけて鹿や猪を追い立てる江戸幕府の一大イベント。当初は武士の士風刷新や鍛錬、それに害獣駆除が目的だったが、家慶の時代になると、異国船が日本に度々近づき、軍事強化の意味合いが強くなった。
 嘉永2年の御鹿狩は、下総、上総、武蔵、常陸から勢子として数万人の農民が集められ、7万人が参加する大規模な軍事訓練の様相を呈していた。
北総の小林村-本埜村から物井村- 和良比村- 小名木村のライン、長沼では六方野周辺から、小金原へ向け、7手に分かれて、3月16~18日の三日間鹿や猪を追い込んで行った。

 将軍は四つ時(午前10時ごろ)に御狩場に着き、旗本たちによる狩りを見たあと、八つ時半(午後3時ごろ)には狩場を後にした。
 長沼新田の高割 勢子は39人。この人数は、石高100石につき6.5人、15歳から60歳以下との定めから割り出された。どこの村も働き盛りの男衆が多く駆り出されたが、とくに長沼は「越石」により他村に比べ勢子の負担が多かった。
 また、御鹿狩の前に六方野から小金牧にいた野馬を六方野へ移し替えのため8,000人、追い戻しに10,000人もの勢子が動員された。
 勢子たちにとって、夜番は息抜きのひとときだった。その場所に、餅や菓子、団子、さらには幕府が禁止した酒肴まで、売り来る商人がいて、賑わったという。幕府は、扶持代金として、世話役に日数に応じ、一日あたり米一升五合程度と細見竹1本分につき30文を支払っている。さらに、一人あたり一合五勺の酒を与えた。

 


1-5  土井利勝 普請と周辺の村々

 東金御成街道を普請した土井利勝は、徳川家康の母方の従弟にあたる。二代将軍・秀忠が生まれると、わずか7歳で秀忠の子守である傳役(ふやく)を務めるなど、小さい時から、家康の覚えがよかった。以後秀忠の側近として、政治的手腕を発揮、慶長15年には、32000石の佐倉藩主になった。続けて、秀忠付きの老中に任じられ、三代将軍・家光の時代に入っても、幕府の中枢にいた。

 家康が利勝に街道普請を命じたのは、彼の能力はもちろん、その忠心に信頼を置いていたからにほかならない。このため、鷹狩りには、別の目的があったのではないかとの見方も出ている。歴史学者の川名登氏は、著書「九十九里農村の史的構造」のなかで、「家康による東金鷹場の設置と遊猟は鷹狩りに名を借りただけのものであって、実質的には九十九里地方の土豪層の旧勢力を抑える軍事的な意図があった」と指摘している。館山には、戦国時代からの外様大名・里見氏がいて、水軍を率い、現・東京湾である内海を勢力範囲としていた。

 土井利勝は、御成街道の普請にあたって、沿道となる地域の97カ村を駆り出し、村ごとに工事区間を請け負わせた。天戸村、宮野木村、犢橋村、薗生村、柏井村、作草部村などから多くの農民が動員され、普請にあたった。 

 長沼あたりは、向山から長沼までの50間(100㍍)について、物井村(現・四街道市)が板橋の架橋と「土分(どぶ)の坂」の普請を、続く60間(120㍍)を作草部村が担当した。また、長沼から池辺までは、飯郷(現・佐倉市)が2町五間(250㍍)を、飯重村(同)が820間(1000㍍)を担った。


1-6   街道の変遷

  東金御成街道は、将軍の鷹狩りのための道だった。徳川秀忠が街道を通ったのが9回。鷹狩りには、将軍を護衛する組方、鷹場の管理を担う鳥見役人、それに鷹匠組、槍などの専門集団ら、ゆうに100人を超える人たちが連なった。家光は、名代だけの鷹狩りだったが、毎年続いた。

 しかし、五代将軍に綱吉が就き「生類憐れみの令」を発し、鷹狩りは取り止め、御成街道の往来も減り、そこに住む人たちの生活道路として利用された。次第に江戸の経済が拡大するにつれ、九十九里方面から、海産物などの荷物が増え、主に交易路として使われるようになる。併せて、江戸の文化がこの道を通って、長沼新田をはじめ、房総各地に流入した。さらに、八代将軍吉宗が享保2年(1717)に鷹狩を復活させ、再び名代による鷹狩りが行われるようになり、賑わいが戻ってきた。
 長沼新田の隣、犢橋村は、旅籠2軒、茶屋1軒の宿場だった。三味線の音も響いていた。畑仕事の長沼新田と違い、商いをする店もあり、いまでも屋号に当時の商いの面影が残っている。近くには花島観音があり、江戸にもその名が知られ、御成街道を使って参拝に来る人もいた。また、長沼新田の駒形大仏も、行き交う旅人が手を合わせ、旅の安全を祈った。
 江戸時代には、公用の書状や荷物を次の宿場まで届けるため、各宿場が必要な人馬を用意しておく「宿駅伝馬制度」があった。犢橋宿には、10~20人の人足と同数の馬がいたといわれる。だが、この使役は犢橋宿にはかなりの負担となっていたという。
 明治以降、太平洋戦争が終わる昭和20年(1945)まで、御成街道は、主に軍用道路として機能した。明治に入って、長沼ー四街道、さらに習志野と、徳川将軍が御鹿狩をした広大な地域が陸軍の演習場となり、太平洋戦争中は、習志野の演習場へ行き交う戦車がすれ違えるよう道路が拡幅されるなど、穏やか農村の長沼にも戦争が迫ってきた。