9.「山越阿弥陀図」と「十三仏図」にみる長沼の浄土信仰

 長沼集落は、となり犢橋町の真言宗寺院・長福寺の檀家が大半を占める。だが、集落にあるお寺は、馬頭観音を祀る奥之院と駒形観音堂の二つで、いずれも浄土宗にルーツをもつ。江戸時代の創建で、駒形大仏の開眼式を機に、浄土宗・大巌寺(千葉市中央区)の支配に入った。以降、徳川幕府の「寺請制度」による旦那寺とは別に、浄土宗が集落の信仰に染み入り、習俗に「浄土信仰」の定着が見てとれる。

 掛け軸の「山越阿弥陀図」(写真・左)が集落に残っている。臨終者のもとに、来迎雲に乗った阿弥陀如来が山の間からやって来て、極楽へ導く姿を描いたものだ。この「来迎図」には、セロテープで補修した跡が数カ所あり、最近まで祈りの現役だったことを物語っている。四十九日や一周忌などの法要の場に掛けられたのだろう。

 「山越阿弥陀図」は平安末期、観想念仏を唱えた天台宗の僧侶・源信が「往生要集」で極楽往生する具体的方法を示し、絵で表現したのが始まり。阿弥陀如来の指と臨終者の指を糸で結び、極楽往生への確かな手応えを演出する「糸」の痕がある掛け軸がいまでもいくつかのお寺に残されている。長沼の掛け軸については、江戸時代中期の作との見立てもあり、臨終者の枕辺に掛けられ、近親者が極楽往生を懸命に祈る姿が想像される

 

 

 もう一つが如来・菩薩から不動明王まで、仏のオールスターが勢揃いした「十三仏図」(写真・左)。十三仏は忌ごとの守り本尊で、中陰や周年忌、彼岸、盆などの法要に掲げられた。鎌倉時代に生まれた十王信仰による地獄の審判役十尊がもとで、南北朝時代に三尊が加わり、こう呼ばれるようになった。中国で仏教と道教が習合し、日本に持ち込まれ、十王が本地仏と対応するようになった。

 だが、十三仏は、地獄の審判役というより、死者を導く仏として信仰されてきた。三途の川の此岸と彼岸をつなぐ長い橋を、死者が無事渡り切れるよう忌日リレーで案内してくれるのが不動明王から薬師如来までの七仏で、四十九日にたどり着く先が浄土となる。

 長沼の「十三仏図」は、十三仏が来迎雲に乗った「来迎図」の体裁をもつ。このためか、死後の罪を審判する閻魔大王(地蔵菩薩)がいる地獄と比べものならないくらい華やかで浄土の雰囲気が漂っており、聖聚が来迎雲乗って極楽浄土からお迎えに来る「聖聚来迎図」のイメージに近い。比較的最近の作とみられ、これも法要で用いられたのだろう。「山越阿弥陀図」と一緒に掲げられていたかも知れない。

 いずれにしろ、源信が浄土「楽」にあげた「聖衆来迎」と「十三仏」の混淆図といってよく、長沼集落の人たちの信仰の柔軟性が垣間見える。 

 このほか、毎年221日に行われる長沼集落の祭祀、カミマツリの「オビシャ」では、三社大神のご神体の背後に、阿弥陀如来を意味する「無量寿」の掛け軸が掛けられる。ここに、集落が向かうべき理想郷、極楽浄土が表現されている。