8.掛け軸にみる長沼・馬頭観音講の世界

 馬頭観音を祀る奥之院観音堂をもつ長沼だけに、馬を飼っていた農家の人たちによる「観音講」が昭和50年(1975)頃まで活動していた。奥之院の境内には、「文政十一年十月念(20)二日 馬頭観世音菩薩 長沼村 観音講中」と刻まれた石があり、講が江戸時代にはあったといえる。文久4年(1864)の宗門人別帳には、長沼新田に馬が33匹いたとあり、また奥之院にある「馬頭観世音」の石碑には「明治卅三年十一月十八日 当村馬持中」と記され、32名の名前が彫られている。

 馬頭観音講は、年に4、5回、馬の爪切りに集まって、行っていたところが多い。長沼では、当番宿に集まり、馬頭観音の掛け軸を前に、馬や村びとの無病息災を祈ったあと、メンバー同士が飲食を通して集落のつながりを確認し合ったという。また、長沼集落の東端、長沼池の端には、馬や動物を葬った「葬馬処」があり、「ソウマンド」、「ソウマド」と呼ばれていた。この場所も、地域の人たちの記憶から消えつつある。

 掛け軸には、昭和26年(1951)大呂歓謹写と記され、以前のものが古くなったため、それを模写したとみられる。               絵として、ご詠歌、三面八臂の馬頭観音と、仏母山長沼観音堂の牛王宝印、梵字 種子の「サク」が光輪の中に描かれている。「サク」は勢至菩薩を意味し、午年の守護梵字。また法然の化身ともいわれる。長沼観音堂は江戸時代、浄土宗 大巌寺(現・千葉市中央区)の管理下にあった。観音堂に鎮座する駒形大仏は阿弥陀如来であり、掛け軸の馬頭観世音と勢至菩薩の脇侍で阿弥陀三尊が揃うことになる。このように、掛け軸には浄土宗の世界が投影されている。  

     

             掛け軸の文言は                                                                                                        [疫難除]  

                     「古満が多衣 まいる古ころ盤 能ち乃世の まよひ越春すぐ 長沼能みづ」 

                     「こまがたえ まいるこころは のちのよの まよひをすすぐ ながぬまのみづ」

                     「駒形へ 詣るこころは のちの世の 迷いをすすぐ 長沼の水」

                                        (翻刻協力:放送大学地方文書の会)

 


 観音堂の馬頭観音像(写真・左)。 江戸時代の作との見立てがあるが詳細はよく分っていない。手の込んだ美しい厨子に納まっている(写真・右)。 

 普段は見ることができなく、年1回、2月18日の奥之院、観音堂の例大祭でご開帳される。


掛け軸の牛王宝印の梵字「サク」は勢至菩薩を表す。浄土宗の祖 法然の幼名は勢至丸。このため、弟子の親鸞らが智慧の化身といわれた法然を「勢至菩薩だ」として崇めたことで、法然伝説が醸成された。