4-1 庚申塔、子安様と講、道祖神を守る人たち

  長沼CC前の庚申塔
  長沼CC前の庚申塔

 長沼の石仏、石塔は、道祖神、庚申塔、子安観音、月待塔、地蔵など多様だ。生活と信仰が直接結びついた時代に建てられたものだけに、これらの石仏には、長沼に生きた人たちの「願い」や「希望」「悲しみ」が込められている。

 奥之院付近の道祖神は、江戸時代から、長沼・本村の村境の役目を果たしてきた。この道祖神と御成街道の向山にある道祖神とを結ぶ道が犢橋村との境となる。道祖神は元々、外から来襲する悪霊や疫病神を防ぐ「賽の神」だ。奥の院近く、村境の道の西側には、「埋め墓」があり、長沼の人たちにとって、「端」を意味した。

 さらに、本村は、奥の院観音堂三社大神といった「聖地のトライアングル」に囲まれている。その輪郭と、「賽の神」とが重なる。このためか、長沼では、旧住民によって、道祖神がていねいに祀られ、正月には鏡餅などが供えられる。こうして、隣村と緊張が続いた長沼の人たちの思いがいまに繋がっている。

 庚申信仰は、庚申の夜、睡眠中に体内の三尸(さんし)の虫が逃げだし、その人の罪を天帝に告げるので、虫が逃げ出さないよう徹夜したとの道教の風習が始まり。平安時代に中国から入り、その信仰は武家にも広がり、仏教や神道と習合し、民間信仰として、江戸時代に最も盛んになった。長沼では、庚申塔が三塔確認されている。いずれも、仏教の影響を受けた青面(しょうめん)金剛を本尊にしたもので、江戸期に生きた長沼の村びとも、豊作福運を願って、一晩寝ずに飲み食いして過ごしたに違いない。

 長沼コミュニティーセンター前の庚申塔は明和2年(1765)の建立で、5名の講中が守っている。庚申の日にはメンバーの自宅に集まって、庚申の掛け軸を前に祈りを行う。五つあった庚申講も、いまではここを残すだけとなった。庚申信仰は、猿を神使とする山王信仰と混じたことから、塔には、「申」が「猿」として、三猿が彫られ、道祖神として祀られることもあるという。長沼の庚申塔の中には、村はずれに置かれていたものもあった。

 庚申は干支の組み合わせで57番目。庚申の年は、60年に1回。庚申の日は60日で一巡し、年に67回やってくる。庚申塔は、318回の勤行を続けると建てたという。

 長沼観音堂の境内には、子安塔(如意輪観音座像)が20基ほど置かれている。このうち、9基が子どもを抱く観音様だ。埋め墓にも10基確認されている。長沼には、20164月に最後の子安講が解散するまで、15軒ずつ3班の講があった。女衆が月に1回当番の宿に集まって、根本寺(市川市)から頂いた地蔵菩薩の掛け軸の前で、延生の地蔵尊の和讃を唱和し、安産や子どもの成長を祈願した。長沼にある子安塔のほとんどは江戸時代に造立されたもの。30基にも達する塔を村びとはどんな思いで建てたのであろうか、その数の多さとともに想像をかき立てられる。中には、十九夜講中の子安様、月待塔も5つほどある。御成街道の道ばた、川端の子安様は、明治34年(1901)の建立で、比較的新しい。願主は女人中だが、長沼池の端という場所から、長沼池で子を失った親の悲しみが込められているのかも知れない。

 また、長沼原町の雪印種苗の敷地、長沼池のほとりだった場所には、寛延3年(1750)に建てられた弁財天がひっそり佇んでいる。願主は、長沼池を水源に田んぼで米を作っていた宇那谷村の村びとだ。長沼新田とは長沼池の水をめぐって争いが絶えなかった。 

 このほか、講としては、馬頭観音講、大山講、天道念仏、古峰講、富士講などがあった。三社大神には、小さな富士塚があり、「富士浅間大菩薩」と彫られた大きな板碑とその左右に「富士浅間大神」「小御岳石尊大権現」と記された石が建つ。富士講によるもので、板碑の台座には、慶応3年4月吉日と刻まれている。

 


庚申講の掛け軸

長沼コミュニティーセンター前の庚申塔をお守りする庚申講は、いまでも庚申の日に、講中7名が当番宿に集まって、「庚申様」(写真・左=青面金剛)と大山(神奈川県) の「石尊大権現」(写真・右)の「掛け軸」を前に祈りを行う。大山のご神体は「岩」。このため、大山は江戸時代には「石尊大権現」と呼ばれていた。阿夫利神社と大山寺、修験道とが習合した信仰で、関東一円に大山講があり、多くの信者が「大山詣り」に訪れていた。長沼にも大山講があった。



長沼の石仏 石塔 道標


4-2  御奉射(オビシャ)オトウ渡し

 221日、御奉射(オビシャ)祭りの当日。昼過ぎの祭礼ながら、朝から、長沼観音堂の境内にある長沼町内会館には、三社大神の氏子の男衆が集まってくる。豊作祈願だけでなく、1年間当番宿(トウヤ)でご神体をお守りし、次のトウヤへご神体を渡す「オトウ渡し」という長沼集落にとって、最も重要な祭礼の準備があるためだ。トウヤとなる家は、ご神体を迎える前に、畳替えや部屋の改装などして、受け入れを待つという。

 以前、祭礼の場は、当番宿の自宅だった。トウヤは宴席を設ける必要があり、金銭負担が大かった。このため、町内会館の完成を機に、平成17年(2005) 頃からここで行うようになった。

 オビシャの準備は、次のトウヤの親戚か、数軒先の氏子が担い、トウヤ自身は加わらない。というもの、当番宿が回ってくるのがほぼ50年に一回。数軒先が準備にあたることで、手順の継承とともに、家にご神体を迎える心構えを早めに持たせようとの狙いからだ。

 長沼のオビシャでは、周辺地域と違い、男女の身体の一部をそれぞれ大根でつくり、供えられる。五穀豊穣と子孫繁栄、それに村の安寧への願いが込められている。祭礼の当日、数名の氏子が朝早く町内会館に来て、長沼の土で育った、太くて真っ白な三浦大根を使って、お供えをつくる。

 町内会館では、祭壇がつくられ、そこに置かれた三体のご神体を松・竹・梅と弓矢で飾り、餅と米、大根のお供えとともに、腹と腹を合わせた2尾の鯛を載せる大皿などを準備する。

 また、数名の氏子が三社大神へ行き、永劫の弥栄を願って、鳥居などに注連縄を飾り、お酒を奉納、さらに燈明を灯して、祭りの始まりを伝える。氏子らは御神酒で清めたあと、この御神酒をオビシャの会場に持ち帰り、祭礼の際に、参加者にふるまわれる。また、燈明の火は、提灯でオビシャ会場に運ばれ、ご神体に捧げられる。

 祭礼は午後2時頃に始まる。30名近い男性の氏子が町内会館に集まる。外部の人たちだけでなく、女性も参加できない。トウヤが「1年間大切に三社大神を守ってきました」と述べ、盃の御神酒を口にし、この盃を新・トウヤに渡す。新・トウヤはこれを飲みほし「これから1年間、精進潔斎し、三社大神を守ります」と宣誓。続いて、トウヤが用意した食事を共に食べ、村の団結を確認し合う。

  このあと、全員が町内会館の外に出て、提灯を先頭にご神体を抱えて新・トウヤへ向かう列を見送る「カド送り」が行われる。昭和30年代まで「あずまのっと、ひとのっと」と木遣り歌のような節で見送っていたが、いまでは、それを詠える人はいない。新・トウヤは1年間、毎日ご神体に水をあげ、榊を欠かさず、三社大神をお守りすることになる。

  周辺地域では、会食だけの形骸化したオビシャが残っている。そうしたなか、長沼のオビシャは江戸時代からの形を継承している。これは、水争いや、「越石」に伴う境界争いが集落の内と外を分け、集落のまとまりを最優先してきたことの投影なのかもしれない。

  このほか、三社大神では、毎年1016日に例祭(秋祭り)が行われる。収穫を産土様(うぶすなさま)に寿ぎ、祝うのが目的で、以前は観音堂の境内で素人のど自慢大会や子ども神輿などが行われ、屋台が出るほど賑やかだった。しかし、青年団の解散後、次第に廃れ、いまでは関係者だけが参加して祭礼が行われている。参加者が町内会館で飲食をしたあと、お供えした鏡餅を細切りにし、お札とともに氏子や関係者に配っている。

 

 

町内会館で供物づくり
町内会館で供物づくり
カド送り
カド送り
例祭(秋祭り)の祭礼
例祭(秋祭り)の祭礼


4-3  観音様の縁日

   奥之院の例祭
   奥之院の例祭

 毎月18日は、観音様の縁日。この日、奥之院(元観音)は普段と違い、お詣りの人が増える。近所だけでなく、長沼に縁がある人たちが近隣からやって来るからだ。縁日には、長沼町内会の当番役2人が社務所で御接待を行うのが習わしとなっている。少しばかりの赤飯と漬け物にお茶といった簡素なものだが、当番役とのひと時の世間話に心和ませるお年寄りたちも少なくない。

 とくに、毎年218日の例祭には、農耕馬を飼っていたという旧農家の人たちが、祖先が建てた馬の供養碑に手を合わせるため、船橋や八千代などからもやって来て、奥の院はいつもの縁日と違って「ハレ」やかさに満ちている。

 駒形観音堂でもこの日、1年に一度だけ馬頭観音が開帳される。昭和初期まで、観音堂には、218日になると、関東近在から馬を引き、馬への感謝と健康を願って、多くの人が訪れたという。お堂の裏の広場では、お詣りした馬による「馬駆け」が行われ、露店が並び、馬の餌となる笹を売る店も出て、おおいに賑わった。

 長沼の多くの人たちは、観音様の縁日や例祭に参拝するだけでなく、町内会の各軒に回ってくる「刺し子」と呼ばれる巾着に、お賽銭としていくばくかを納める。お年寄りによれば、「刺し子」は、以前藁を束ねた藁苞(わらづと)が町内に回って来て、これにお賽銭の硬貨を差し込んだことから、こう呼ばれるようになった。「刺し子にお金を入れれば、お参りしたことになる」ともいう。

 御接待の当番役だけでなく、「刺し子」も、仲間で奥之院の運営費を捻出するための講としての機能をもち、いまも町内会の結束に役立っている。

例祭では甘酒もお接待
例祭では甘酒もお接待

4-4 出羽三山講

三社大神境内にある出羽三山詣りの記念碑
三社大神境内にある出羽三山詣りの記念碑

 房総地方は、羽黒山、月山、湯殿山の三山へお詣りに行った記念の板碑がいたるところに建っている。村びとが三山講を組み、村の儀礼としておこなった「証」といえるものだ。

 羽黒山が現世、月山が前世、湯殿山は来世といわれ、三山をお詣りすることで、死と再生を疑似体験し、人生の新たな門出を自覚させる意味を持つ。このため、村びとが一人前になる通過儀礼として行っていたところもあり、長沼新田では集落の一員となるために欠かせない儀礼だった。

 長沼の三山講は、長沼集落ができた頃、江戸・元禄時代から現在に至るまで、33回続いている。町内会館には、これまでの三山講の参加者名簿が掲げてあり、旧住民はタイムスリップして、自分の祖先の名前を見つけ出すことができる。長沼の場合、古くから宿坊の神林勝金(山形県鶴岡市羽黒町手向)に泊まることになっており、そこの宿帳(檀那場帳)から、写したものだ。その記念の石碑が三社大神の境内に12基(記念碑として確認できるのは11基)建っている。

 長沼では、三山講を「オオシコ=奥州講」と呼び、所帯を持った男衆が10人集まると、講をつくり、三山詣りに行くことになっている。登楼がセットになっていた時代もあった。しかし、なかなか参加者が集まらず、おおよそ10年に一回だった間隔もさらにひろがる傾向にある。直近は、平成19年(2007)に講が組まれ、その記念の碑が三社大神に置かれている。

 以前、講は三山詣りに行くにあたり、まず三社大神にお詣りし、そのあと、長沼新田の「上」地区(西側)の端にある家を宿にして、三社大神にお供えした酒を飲み交わして出発した。近所は、講に参加する男衆にお包み(お金)を渡し、もらった衆はお土産として三山詣りの掛け軸をその家に持って行くのが習わしだった。また、お詣りで本人が使った数珠、杖、行衣などを棺に入れて、見送ることもあったという。

 いまでは、三山講に参加者した者同士で「同期会」が結成されている。年1回集まって、酒を飲み交わし、結束を確認し合っている。お詣りのあとも、こうして三山講は継続されている。

 一方、長沼の女衆は秩父34番を巡る秩父講をいまも続けている。子どもから手が離れたおんな同士による旅を通して、懇親を深め、村のつながりをいっそう強めるのが狙いだ。最近では平成18年(2006)に行われた。

 

 

 御師集落・手向の宿坊 神林勝金
 御師集落・手向の宿坊 神林勝金

4-5 駒形大仏への信仰

大仏の右前肩に四代将軍の刻字
大仏の右前肩に四代将軍の刻字

 元禄16年(1703)に建立された長沼・駒形大仏に対する信仰は、下総の広い範囲に及んでいた。大仏の背面に浄財を寄進した約60カ村もの村名、多くの村人、僧侶の名前が彫られていることからもその広がりが分かる。街道を通る旅人も、ここで遠くの家族に思いをはせ、そして道中の無事を祈ったに違いない。

 大仏の右上腕には「大仏施主 村々男女 三界万霊有無縁等」と印され、すべての人の霊の安寧と極楽往生を等しく願って、大仏建立に奔走した心愚らの思いが刻まれている。また、右前肩には「今上皇帝 将軍御代々 東照権現 台徳院殿 大猷院殿 厳有院殿 御尊霊」と、四代将軍 家康の勅諡号(ちょくしごう)と秀忠、家光、家綱の法号も見て取れる。 

 長沼観音堂にある駒形大仏は、中腹面で定印を結ぶ阿弥陀如来座像。頭部は割込型鋳造、体部は約30点もの鋳造ブロックを接合して造られている。蓮座がなく、そのまま座っている。移座の際に置き忘れたとか、舟で江戸から運んだ時に、また検見川の舟泊りから長沼へ移送中に壊れたとか、議論が絶えない。また、手のひらにものを載せていた痕が残っている。