10.長沼の筆子塚と教育

□駒形観音堂に筆子塚

 長沼の駒形観音堂に筆子塚がある。江戸時代の後期に長沼新田、犢橋(こてはし)村、花島村などの子どもたちに手習いを教えていた寺子屋の亡き師匠の遺徳を偲び、生徒である筆子が建てたもので、そこには長文の追悼の辞が刻まれている。筆子塚といえば、墓石や供養塔が多いが、長沼のそれは立派な板碑であり、ここからも師匠を慕う筆子の思いが伝わってくる。

 

□先生は長沼新田の藤沼郡次  

師匠の名は藤沼郡次で、長沼新田の生まれ。明治9年2月2日に死去した。

碑は、渡邉伊左ヱ門ら三人が発起人となって、明治25年9月に建てられた。追悼の文を書いたのが筆子の町野求平。台座には、寄進者の筆子とみられる80名を超える名前が並んでいる。                          観音堂にある筆子塚

 

                                                                                                                                                


                       碑文

 表面

 

 門弟 町野求平撰文

師通稱郡次號可實長沼新田藤沼長五郎之二子也

甫十二就武田精庵受句読書法

以廉退謙謹為所愛矣十八學栗生泰良

及壯結舎于犢槁以教育少壮側業刀圭

然而自以為我學未足也聘遊士高木箕山者而自為之助以師事焉

爾後學漸進孜々薰陶諸生三十年于茲

遇會明治學制頒布也乃廢焉

後優々自適好作俳句以娯老矣于

時明治九年二月二日享年五十有九而永逝矣

師資性優厚篤實温顏寡言而率其後生也先行而後學

厭華而欣實故人謂先生學雖不甚富而善學柳下惠也

是以遠近相傳執贄於此門者幾乎四百矣當時地方知名士多出於茲矣   

噫乎師斯人也

而不祀者抑不能無天道是邪非邪歎

吾輩之悼情欲艮焉豈可得哉於

是乎興一片碑以慰師之靈于泉下云爾

 大井克親篆額併書     検見川町石工小川忠藏刻 

 

裏面

 

おもひ残すこと さらになし春のたび       可実

 

明治廿五年九月

 

                        発起人 渡邉伊左ヱ門

                             大野真平

                             町野賢次郎

                   


                            要約

師は通称、郡次と言い、可実という俳号を持つ。長沼新田 藤沼長五郎の二男で、12歳で武田精庵から句読書法を教授され、真面目に勉強したことから、先生に可愛がられた。18歳になると栗生泰良のもとで医術を学ぶ。さらに、青年となっては、犢橋に学び舎(寺子屋)をつくり、少年や若人の教育に力を注いだ。一方で医者として生計を立てていた。

しかしながら、自身が未熟であると自覚し、高木箕山という遊士を招き入れ、師事した。

その後、自らの学びが進んだことから、様々な人たちの教育に取り組み、それは30年にも及んだ。ちょうど明治の学制施行(明治5年=1872年)にあたり、学校教育が始まったため、学び舎を終えることにした。

そののちは、悠々自適の生活に入り、俳句作りを老後の楽しみとして、ついに明治9年2月2日享年59歳で永眠する。

師は優しく情に厚く、誠実で寡黙ながらいつも穏やかな顔をされ、生徒たちには率先して学ぶ姿勢を示していた。また、虚飾を嫌い、実を好んだ。それ故、人びとは師について、こう言っていた。先生の学は、直接お金を稼ぐことにつながらないが、「柳下恵」(注)そのものであると。このため、近くはもちろん遠くからも多くの学生が門を叩き、学んだ人の数は400人余りに達し、この地の多くの知名の士がこの門から巣立っていった。

師とはこのような人をいうのである。

亡くなられても弔わない者、その恩に報いようとしない人に天道はない。このことは邪なこと、そうではないのか。

我々のこうした篤い思いをどうしてとどめることができようか。ここに一片の碑を建てることによって、墓に眠る師の霊を慰めることにしたのである。

注:魯の大夫(長官)「柳下恵」は立派な地位を誘われても自分の節操を変えることがなかったとの論語からの引用。


□長沼の教育は神照寺の寺子屋が始まり

藤沼郡次が手習い所の寺子屋を始めたのは、江戸時代 天保13年ごろ。犢橋村の神照寺(現在は廃寺 =千葉市花見川区犢橋町262付近)で天保期の末から幕末にかけて、地域の子どもたちに文字とともに、道徳を教えた。碑文のような筆子の師への篤い思いもこうした道徳教育によって培われたといえる。                              

                     

                                      神照寺の跡地                                                                                            


□千葉県の筆子塚は3,300基あまり 

千葉県では、筆子塚が3,300基あまり確認されている。房総の寺子屋は17世紀後半から普及し、18世紀中頃に爆発的に増加した。寺子屋の師匠といえば、名主などの農民や、商人、下級武士などさまざま、女性の師匠もいた。手習いだけでなく、論語などの道徳・しつけも寺子屋教育の大きな柱だった。教育方法は今と違い、師匠ひとりに対して筆子ひとり。各自のレベルや関心に合わせて指導した。筆子は寺子屋にいながらも基本、自習で勉強し、年長の筆子が年少者を教えていた。


□寺子屋は「家」制度が後押し

江戸時代は兵農分離で、城下町の役人と農村にいる名主など村役人との間は文書でやりとりしていた。このため、文字の読み書きや計算能力が村役人に欠かせなかった。一方、農民も村役人の年貢をめぐる不正などを監視するために読み書き、そろばんの能力を身につける必要があった。また、「家」制度の定着で、長男への土地の継承が「家」の重要課題となり、こうした「子ども」への関心が寺子屋普及の後押しとなった。


□寺子屋が犢橋小学校へ

長沼周辺では、天保年間に犢橋村の神照寺、宇那谷村の大聖寺、安政年間に長沼新田の観音堂など数カ所に寺子屋が誕生した。その後、神照寺が廃寺となり、寺子屋は犢橋村(現・千葉市花見川区犢橋町)の長福寺に間借り。また、明治5年(1872)の「学制」発布により、明治6年に寺子屋を継承する形で長福寺に「犢橋学校」が創設された。教員は佐倉藩士の仁辺道、園生の鏑木憲三郎(学科、読書、習字)との記録が残っている。明治16年に「犢橋小学校」となった。                   犢橋小学校があった長福寺


□昭和2年 長福寺から現在地に移転

明治16年12月には、宇那谷村の大聖寺に「宇那谷小学校」が開校。明治18年教育令改正、同19年小学校令公布で「犢橋小学校」は「犢橋尋常小学校」に、同23年の教育勅語発布、小学校改正、同24年の小学校教則大綱制定などを受け、同26年に高等科が併設され、「犢橋尋常高等小学校」に改称された。明治31年に柏井分教場(現・花見川小)、同39年に小深分教場(現・山王小)も設置された。昭和2年には、56年間にわたって長福寺にあった校舎が千葉市花見川区犢橋町774の現在地に移転した。

参考文献 平成4年1月18日千葉市立犢橋小学校創立120周年記念誌


□犢橋小学校の変遷              平成4年1月18日千葉市立犢橋小学校創立120周年記念誌より