千葉市は明治41年(1908)6月に、鉄道聯隊が椿森に置かれてから、大正元年(1912)の陸軍歩兵学校(天台)、同12年(1923)の下志津陸軍飛行学校(若松)をはじめ、作草部の気球聯隊(1927)、穴川の千葉陸軍戦車学校(1936)、小仲台の千葉陸軍防空学校(1938)など、数多くの陸軍施設がつくられ、その総面積は約462ヘクタールに及び、戦前は「軍の街」の顔を持っていた。その痕跡は、稲毛区にも、鉄道第一聯隊材料廠や軽便(軽便鉄道)道路などいたるところに残っている。
長沼周辺では、明治19年(1886)から現・長沼原町一帯が軍用地として買収され、以後日清、日露、第一次、第二次大戦と軍国主義の台頭により、軍用地が拡大され、長沼の西から四街道にかけて、広大な陸軍演習場となった。長沼原町と四街道市の境にある「遠近五差路」(遠近=トーチカ)はその名残りである。
千葉県総合スポーツセンター近くなど数カ所あった砲撃陣地から撃たれた砲弾の目標地点が大日山で、その小高い丘が砲撃で崩れてなくなるほど激しい演習が行われた。戦後、着弾地であった下志津原(四街道市)には、復員した人たちが、また鹿放ケ丘(同)は茨城県にあった満蒙開拓青少年義勇訓練所の援農や入植者百数十名が入り、鹿放ケ丘神社が建立された。周辺では、いまでも土に埋もれた砲弾を見つけることができる。
長沼の北側にも、復員軍人や引揚者らによる開拓地が広がる。入植者らが昭和23年(1948)に長沼原開拓農業協同組合を結成し、約200ヘクタールの農地を拓いた。この時、長沼原神社(当時・長沼原開拓神社)が創建され、開拓世代の交代が進むなか、先代や先々代の思いを大切に守り続けている。
戦中、長沼・本村の農家は、演習のために御成街道を行き交う軍人らの休憩場となり、お茶などの接待を行ったという。また、三社大神の境内に野営する隊もあった。
千葉市は軍都であっただけに、昭和20年(1945)6月10日と7月7日の2度にわたって米軍機による「千葉空襲」に遭った。中心市街地の約7割231ヘクタールが焼失し、死傷者が1595名、被災戸数8904戸、被災者は41212人にも達した。
「千葉空襲」の恐怖は長沼にも襲った。地域の語り部によると、「今の自衛隊がある下志津は飛行場だったから、あそこが狙われたの。流れ弾がすごかった。焼夷弾、ずいぶん落ちたよ。家は燃えなかったけど、防空壕は作ったの」とその激しさを語っている。また、当時、牛を飼っていて「この辺は軍の演習場があったから、朝早く赤旗が上がると、今日は鉄砲があるから、草刈りにいけないよ、って、道に遮断機が下がるの。だから、草刈りは日曜じゃないといけなかったの」と振り返っている。
子どもの誕生や成長は、親だけでなく、集落にとっても、大きな関心事だ。とくに、長沼では、男女に関係なく、長子の誕生、それに七歳の祝いが節目の儀礼として大切に行われてきた。そのひとつが「三ツ目のぼたもち」で、長子が生まれ、三日が過ぎると、ぼたもちを近所に配って、出産を伝えた。大きなぼたもち3つが定番。子どもの親の仲人や産科医院、それに乳の出がよくなるよう母親も食べた。こうした習慣はいまでも一部残っている。
また、長子が七歳まで無事に育ったことを七五三とは別に祝った。七歳になった子どもを馬車にのせて、7月15日に行われる稲毛浅間神社の祭りに連れて行き、お祓いを受けたあと、神社のお札、それに「うちわ」と桃を買って、近所に配ったという。
11月15日の七五三(帯解き)は長沼の住民にとって、一大行事である。長子がこの日を迎えると、結婚式並みのお祝いをする。この時は、親ではなく、親の仲人が主役となる。七歳になったことは、近所の人が鏡餅をヒノキの葉とともに、ザルに載せて渡しに行くことで、親戚や他の人たちに知らせた。親戚は伝えに来た人に御礼を包み、当主も寸志として幾ばくかを渡した。お祝いの場は自宅となる。そして、観音堂に餅をお供えし、お祝いを奉納し、餅やみかんも撒かれた。こうした習慣は昭和30年代まで続き、一部現在に引き継がれている。
いまでは、お祝いの場もホテルへ移りつつある。出席者は、お祝いを持参する。宴の主役である仲人と子どもは、会食中に、それぞれの席を回って挨拶し、そのあとに親族がお盆を持って続き、出席者から「おひねり」を受け取る。なかには、こうした習わしを知らず、用意がなくて、慌てる出席者もいた。
「七福神かぞえ唄」は、七五三など長沼の祝いの場で歌われていた。祝い事は以前、村全体の行事だった。しかし、近年は個人によるイベント化が進み、祝い唄を歌う場がなくなってきている。長沼でも、この唄を歌える人はもういない。これは平成18年(2006)に、87歳を過ぎた,地域の語り部 三角ハナさん(故人)が残してくれた祝い歌である。ハナさんによれば、この唄は昭和25年(1950)ごろに、知り合いから教わり、七五三だけでなく、結婚式や上棟式などハレの場で歌ったという。
七福神かぞえ唄
ひとつとせェ~
七福神が入り込んで お酒を飲むやら踊るやら鼓打つやら おおいさみじゃェ~
ふたつとせェ~
福持ち長者で栄えます お家は益々繁盛する 銭蔵(ぜにぐら)金蔵(かねぐら)建てまわすぞェ~
みっつとせェ~
見事なお庭の泉水(せんすい)は 鶴が飛び出す舞い遊ぶ 亀が浮き出す 五葉松
よっつとせェ~
よろずの神々入り込んで 店も2階も繁盛する 見れば家中が 札だらけじゃェ~
いつとせェ~
いつ来て見ても家内じゅがェ~ にこにこ顔して主さん 築山 眺めて おち遊ぶぞェ~
むっつとせェ~
息子と娘が奥の間で 金貨や銀貨の金(かね)調べ そばで二親(ふたおや)指図するぞェ~
ななつとせェ~
長押(なげし)尽くしで金金具(きんかなぐ) 金銀尽くしで総飾り チタン 黒檀 たがやさんぞェ~
やっつとせェ~
屋敷の周りを見もすれば 金蔵(かねぐら)七つに穀倉か 裏と表で 始終(しじゅ)と舞ェ~
ここのつとせェ~
心 安全 穏やかで よくも揃たよ家内中が 末から末まで 繁盛するぞェ~
とおとせェ~
徳持ち長者になったのも 檀那の心が良い故に 金(かね)のなる木に 根が生えたぞェ~
おめでとうございます
昭和30年(1955)代、長沼の男の子たちにとって、長沼池とそこへ流れ込む小川は格好の遊び場だった。「パンツひとつになって、鮒を手づかみするのが何より楽しみだった。釣り竿で魚を取ることを知ったのは、大人になってからだ」と70歳代の男性は子どもの頃を回想する。ザリガニ取りもしたが、家族に喜ばれたのが鮒取りで、子どもが取ってきた鮒を干して出汁に使ったりしていた家もあった。お年寄りによると、ご飯のおかずに鮒ばかり出て、うんざりしていたとか。小学校の低学年は、小川で遊んだが、上級生になると、長沼池に潜って、その深さを競い合ったという。だが、昭和50年頃には、長沼池が埋め立てられ、学校にプールが設置されるようになり、長沼池での遊びも地域の記憶から消えつつある。
長沼・本村の周辺は、山ユリが一面咲く野原が広がっており、キノコ、ワラビなどの山菜取りや、野ウサギを追っかけたりして遊んでいた。また、三社大神の周辺に多く生息していたキリギリスを採って、仲介業者に売り、小遣い稼ぎをしたこともあったという。「巡査ごっこ」は男の子たちの楽しい遊びの一つ。刑事と泥棒に分かれ、かくれんぼをしながら、野山を駆け巡った。
長沼地域の畑には、江戸の子ども達が遊んだ「泥メンコ」が埋まっていて、それを見つけ出すのも楽しかったという。「泥メンコ」は、江戸の生ゴミが堆肥として、検見川から周辺の村に持ち込まれ、その中に「泥メンコ」が紛れ込んでいた。子どもたちは、それを掘り出しては、模様や大きさを自慢し合った。
昭和30年(1955)代、夏休みは毎日小学校の仲間と過ごした。お盆まで観音堂では子どもたちだけの「勉強会」が開かれた。上級生が下級生に対して、勉強を含めいろいろなことを教えたという。また、観音堂の境内で、米1合と小遣いを持ち寄り、リーダーの下、釜で御飯を炊き、持ち寄った野菜で味噌汁を作り、一緒に食べる「ヒアリ」(≒ヒマチ)も懐かしい夏の思い出。冬には、「朝起き会」として三社大神に集まり、落ち葉集めをして体を温めた。
当時の小中学生のなかには、陸軍演習場だった近くの畑地に行き、砲弾を拾って小遣い稼ぎをしていた子もいた。鉛なので高く売れ、その金遣いが学校の先生の目にとまり、家庭訪問を受けた児童もいた。
女の子の遊びは、石けりやあや取り、お手玉、おはじきなどで、家での遊びが中心だった。お手玉は、数珠玉や小豆を入れて、自分たちで作った。外遊びは、親たちが稲藁をなって作った大縄とびやかくれんぼ、ゴム跳びなどで、男の子と違って、仲間で村境を超えて、冒険することはなかった。
長沼の人たちは、江戸時代から都市化が進む昭和40年(1965)代まで、ずっと農業を生業としていた。新田開発の当初から、水の確保が困難だったため、畑作をするしかなかった。犢橋村に残る記録では、長沼を含む大正時代の犢橋の農業は、主力の小麦のほか、甘藷、蔬菜、養蚕が盛んだったという。
しかも、近くに多くの陸軍施設があったことから、農業も軍に支えられ、小深蔬菜組合では大正7~8年(1918~1919)頃、四街道の砲兵聯隊や佐倉の歩兵聯隊向けに、沢庵漬を年間7000貫(26トン)も出荷していた。
長沼や犢橋では、澱粉用に甘藷が植えられ、昭和30年(1955)代には、地域内に6軒もの澱粉工場が操業し、澱粉生産が農工の一大産業となった。農家では、甘藷を南京袋に入れ、リヤカーやオート三輪に山積みにして、澱粉工場に持ち込むのが日課となっていた。地域でいち早くテレビを購入したのも澱粉工場の家で、近隣の子どもたちは力道山のプロレスを見たくて、家に上がりこんだという。
だが、澱粉工場も昭和30年頃をピークに衰退に向かい、いまは一軒も残ってない。澱粉の原料となるトウモロコシの米国からの輸入が急増したことに加え、農家が甘藷に比べ手間いらずで高値で売れる落花生へ栽培を切り替えたからだ。また、年間通して安定収入を得るために、一部の農家では、乳牛を飼っていて、乳搾りも日課となっていた。
長沼は、昭和35年(1960)に二宮産業、鬼怒川ゴム工業、翌年に住友重機械、東京エコン建鉄などの工場が進出し、工業化が進んだ。さらに、昭和48年(1973)開催の千葉県国民体育大会を機に、国道16号が整備され、都市化が一段と加速。これに伴って、サラリーマンとして勤めに出る農家が増え、農地が急激に減少し、長沼の農村風景は商業・娯楽施設や戸建て住宅、アパートなどに取って代わり、豊かな自然も消えていった。
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