長沼・本村には、観音堂に「詣り墓」、村の西ハズレに「埋め墓」があり、昭和初期ごろまでひとりの故人が2つの墓を持つ両墓制の習俗が続いていた。土葬から火葬に移行した現在、この習俗は廃れ、「埋め墓」があった場所は本村、旧住民だけの立派な共同墓地となっており、納骨も墓参もここで行われようになった。しかし、いまでも、観音堂の「詣り墓」は祖先の霊を祀る人びとによって、きちんと掃除され、きれいに守られている。「詣り墓」の墓石には、「○○墓」ではなく「○○代々の霊」と彫られ、「埋め墓」との違いがみられる。大半が明治、大正時代に建てられたものだ。江戸期建立の墓石には女性名が刻まれたものが多い。埋め墓の如意輪観音や子安信仰との関連、さらには男性の墓は明治以降、「○○の霊」に集約されたのではないかーなど想像が膨らむ。
両墓制は、死のケガレが村びとに及ばないよう遺体の埋葬地を集落から遠いところに、また祖先の霊を祀る場所は墓参しやすい集落のなかに置くとの見方や、古来の霊肉分離の観念に基づくとの考えもある。この墓制は、近畿地方に広く存在するが、他の地域は点在する程度といわれる。関東のなかで、長沼のようにはっきりした形を残しているところは少ない。
長沼の「埋め墓」は、奥の院の近く、隣りの犢橋地区に接する村ハズレにあり、ケガレを村の外へ追い出そうとする観念がみてとれる。しかもここは、村の西側にあたり、西方極楽浄土を連想させるのに充分なロケーションだ。
この付近は、昭和40年代ごろまで、辺り一面が藪という寂しい場所「ヤマ」だった。一方、長沼池東岸の「ヤマ」には、霊界と現世とを行き来する乗り物だった馬や、牛の屍体の埋葬地「葬馬処」(ソマンド)があった点も興味深い。これに対して、「詣り墓」は、秋祭りののど自慢大会や盆踊りの会場にもなっていた観音堂の境内という、まさに村の中心といえる場所にある。「詣り墓」がある観音堂、それに奥の院と三社大神といった「祈りの場」を持つ本村の人たちが村のハズレに埋葬地を持つことで、こうした「聖地のトライアングル」への祈りがいっそう増したのは間違いない。
また、江戸・元禄時代に、長沼新田で最初に行われた出羽三山詣りのツアーガイドを務めたとみられる村人の修験山伏 長宝院の墓も両墓地に見つけることができる。
「共同墓地」には、各墓や無縁墓地に江戸期から今に至る40体以上もの地蔵菩薩像が立っている。地域の地蔵像がここ「埋め墓」に集中する。江戸時代から続く長沼の地蔵信仰は「願かけ」や「お守り」ではなく、「死者供養」の意味を持っていたに違いない。
長沼・本村の多くの家には、敷地内に稲荷神を祀った屋敷神が置かれている。このカミは、祖霊神と農耕神に関わりがあるとされ、全国的にも稲荷神を屋敷神として祀るところが多い。
奥之院、観音堂、三社大神といった「祈りの場」に囲まれて、生活してきた長沼・本村の人たちにとって、この「聖地のトライアングル」は、小宇宙そのものだったに違いない。道祖神や、お地蔵様、猿田彦の道標など長沼に残されている石仏や石塔はウチとソトを分ける目印であった。
隣村より後からつくられた集落が、近隣との水争いや境界をめぐるいざこざに立ち向かうには、ソトに対するウチの団結が求められ、その求心力として、三つのカミサマが必要だったとみることができる。「オビシャ」というソトを遮断した秘儀が長沼に継承されているのも、また都市化のなか、「講」(庚申講など)が依然として残っているのも、ともに集落の結びつきを強めるためといってよい。
いまでも、本村の旧住民、46軒の間では、本村のことを、そこに住む人たち個々人をイメージしながら、「ムラ」とか「ウチの部落」と言っており、三社大神の氏子で構成する長沼町内会を「ウチ」とする意識が強い。
昭和48年(1973)の千葉県国民体育大会を機に、国道16号の整備などで、長沼を取り巻く環境は激変する。それまで、長沼・本村の人たちは、御成街道が生活空間の軸になっていて、行動範囲も街道とつながる京成線沿線や四街道が中心だった。これが、昭和48年以降、バス路線の充実などで、生活の軸がJR稲毛駅に移り、これにつれて、都市化の波が押し寄せてきた。
しかしながら、旧住民は、江戸時代から御成街道沿いに居を構えてきただけに、生活に街道が染みついており、時として「街道」が判断の物差として語られることがある。本村の人たちにとって、東金御成街道は、車が通る便利な「道」だけでなく、ものごとを考える基準、生活の「道」としての意味を持ち続いている。
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