四代将軍 家綱の時 寛文12年(1672)に、現・八重洲周辺に住んいた江戸町人 瀬戸物町の玄庵、本小田原町の七兵衛、五郎兵衛町の九郎左衛門と五郎兵衛の4人が、今でいうデベロッパーとなって、幕府に六方野の開発を願い出て、許可が下りた。
六方野は、現・千葉市花見川区こてはし台、千種町、若葉区若松町、四街道市大日に広がる原野で、周辺村々の入会地だった。西側の750町歩、約7.5平方キロメートルを畑地として造成しようというもので、計画が一年遅れ、延宝4年(1676)に検地を受け、「長沼新田」が成立した。「長沼新田」の南側、東西に東金御成街道が横切り、街道沿い約600㍍に渡って両側に農家が建ち並び、集落である「本村」が形成された。各家の背後に、屋敷地幅(普通15間)で一区画横約25㍍、奥行約220㍍の畑地が広がり、江戸期には33筆もの農地があったといわれる。
いまでも、御成街道沿いは当時の家並みが続き、その南側には、江戸時代からの区画の一部が残っており、農地として利用されている。江戸の農地は倉庫やスーパーなどになって、大方消えてしまっているが、直線に延びる道路などから往時の区画が想像できる。
江戸時代に開発された当初、「長沼新田」は全体の80%強が原野で、農地はわずか2%に過ぎなかった。新たに開発された土地も、文化3年(1806)の時点で中の下以下の畑しかなかった。水田適地が少なく、農業を行うには、あまり条件がよくなかった。
平成18年(2006)10月まで、御成街道沿いに、島田家の大きく立派な長屋門があった。幕末から明治初期にかけての豪農の風格を持ち、駒形大仏とともに、長沼のシンボルだった。
長沼新田は幕領で、幕府の代官が統治していた。近隣の村だけなく、江戸の人たちも入植したが、詳細は分かっていない。「江戸」などの屋号にそのルーツが投影されている。
大半が原野で、農民たちは稲作の夢を持ちながらも、水の確保に苦しみ、畑を耕すしかなかった。当時は、芋や蔬菜のほか、麦、陸稲も一部作られていたとみられる。
また、土地の大半を近隣の村人らが所有し、本村の人たちはわずかを持つに過ぎなかった。このため、周辺とは、いつも水や境界線、入会地の問題で緊張を強いられていた。
文久4年(1864)の幕府代官に宛てた宗門人別帳によると、長沼新田は、65家あり、このうち百姓が49家、水呑百姓が15家、それに修験山伏の1家。人数は男196人、女204人で合わせて400人。馬は33匹いた。石高は、五九三石三斗弐升七合。旦那寺は、村内にある浄土宗の観音堂を除いて、真言宗の大聖寺、長福寺、明星寺、天福寺、圓福寺、大鏡院、日蓮宗の本敬寺、長妙寺ーといずれも村外にあった。
石高は、元禄15年(1702)四〇五石三五九合(下総国元禄郷帳)、天保5年(1834)五一三石二九八合(下総国天保郷帳)、明治2年(1869)五九二石六九七合(旧高旧領取調帳)と増加している。とくに、長沼新田は、他村の「出作」が多く、天保8年(1837)には、越石の制度によって、新たに他村の石高が加えられ、石高が大きく増えている。このように、長沼新田の本村の人たちは、石高に比して、実際の石高は少なく、決して豊かとはいえなかった。
一方、嘉永7年(1854)の史料に、長沼新田は「御台場御用芝」の生産地であったとの記録が残っている。幕末、日本周辺には、外国船が頻繁にやってきた。これに備えるため、江戸幕府は品川沖に砲台を据えた台場を建設することにした。長沼新田はここで使う「芝」を供給していたのである。長沼のどこで芝を育てていたかなど文書では、詳細が不明だが、幕末の騒々しさが長沼にも及んでいた。
現在、長沼・本村に住む旧住民(長沼町内会)は46軒(平成28年・2016)。長男が家を継いできた。苗字で多いのが高橋15軒、渡辺9軒、藤沼5軒で、本村内では、いまも屋号で呼び合っている。旧住民の多くは、会社勤めや、定年退職後農業をしたり、商売に転身していて、専業といえる農家は1~2軒になっている。7月の風物詩、田んぼに饅頭を供える「稲虫送り」も、農薬の普及などと相まって、昭和45年頃には行われなくなった。
また、国道16号沿いの「ワンズモール」近くに「あらく公園」がある。以前の地名「あらく」が残ったもので、長沼・本村の入会地として、焼き畑や雑穀の栽培を行っていたという。
江戸時代、長沼新田は隣村の宇那谷村と長沼池の水をめぐって、激しい争いを繰り広げた。長沼池は、周辺の村にとって、貴重な水源となっており、宇那谷村は長沼池から水を引き、米を作っていた。これに対して、畑作が中心の長沼新田は、水田の確保が念願だった。
このため、長沼新田のほか、他村も幕府に対して、長沼池の開発を宝暦、明和、天明、寛政期にわたって、願い出たが、宇那谷村が用水不足を理由に反対し、不許可となっていた。
さらに、宇那谷村からは、長沼新田の「悪水」が長沼池に流れ込み、米作りに支障をきたすとの申し立てがあり、両村の間では喧嘩が絶えなかった。また、長沼新田字内野が宇那谷村のなかの飛び地だったため、境界線についても、争いが起こったとの記録が残っている。
しかし、天保5年(1834)になると、事態が動き出す。長沼池を自ら開発しようとの長沼集落の強い思いが幕府の腰をあげさせたのだ。これにより、宇那谷村と長沼新田とで、沼地6町6反歩(約6万6000平方㍍)のうち、宇那谷村が1町歩(約1万平方㍍)を溜井として借り、その分の年貢を長沼新田に上納する、また宇那谷村に「悪水」が流れないようにするとの取り決めがなされ、開発が始まった。
だが、この合意に対して、天保6年(1835)に宇那谷村の48人が訴訟を起した。両村の役人の馴れ合いで決められ、長沼池全体が開発されてしまうのではないかと訴えたのだ。長沼新田からは、返答書が出されるなどした。これも翌年には、ほぼ合意通りの内容で話がまとまり、①長沼池は長沼新田が管理する②宇那谷村の用水の取水方法③長沼新田の「悪水」への対応方法などを確認し、示談が成立する。
こうした宇那谷村との「水争い」は、長沼集落の団結力をより強くすることにもなった。
長沼新田は、御成街道沿いに続く家並みの背後に広がる畑地だけでなく、隣接する柏井や花島、犢橋村などと接する周辺部にも広大な農地が点在していた。これは、周辺の他村が開発した「出村」の農地で、幕府への年貢は長沼新田を通して納められていた。これを「越石」と言い、長沼新田には、原野のなか、こうした「出作」農地が多くあった。長沼新田の特徴の一つでもあり、宇那谷村との「水争い」とともに、集落形成に大きな影響を与えた。
文化2年(1805),文政9年(1826)に、新たに開発された長沼新田の土地のうち、花島村が45.6%、犢橋村が27.6%、柏井村が8.6%、横戸村が1.7%を持ち、長沼新田は本村の一人が所有する4.3%だけ、飛び地の内山新田(長沼新田内字内野)14人の12.2%を含めても約15%と、他村の出作が大半を占めていた。このことは、長沼新田が他村の主導で開発されてきたことを意味する。
このように「越石」は、年貢の収納方法に大きく関わることであり、さらに出作部分の境をめぐって、村内で他村同士の喧嘩が起こることもあったという。
千葉県文書館には、長沼新田の名主役を務めた島田家が所有していた古地図や古文書が4200点余り所蔵され、「越石」や「水争い」に関する古文書が多数残されている。それだけ、この二つの問題は、長沼新田に生きた人びとに重くのしかかっていた。
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